~当初検討されていた「区」の名称とは?~ |
1932年(昭和7年)、「南葛飾郡」の中で、小松川町、葛西村、篠崎村、松江村、 瑞江町、小岩町、鹿本村の7つの町や村が一緒になり「区」となることになった。 その時の名前は、人が多く住んでいて、全体の真ん中に近いところにあった「松江村」の名前を取って、「松江区」が検討されていた。た。地名は、区の東側を南北に流れる江戸川にちなむ。
しかし、一つの地名だけを区の名前にするのはおかしいという声があがり、区を流れる川から名前を取って「江戸川区」とすることになった。
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~江戸川の由来や特徴~ |
古くは「太日川(ふとひがわ)」と呼ばれていた。
上流は渡良瀬川だったが付け替えで「利根川」となり、世俗「坂東太郎」と呼ばれ、別に文巻川・葛飾川・行徳川などとも呼ばれた。
江戸初期、利根川を鬼怒川・常陸川に付け替えて銚子に流し、新たに運河を掘って旧利根川(太日川)につないで分流。東北・北関東の物資を江戸へ運ぶ流通ルートとすると「江戸へ至る川」の意味で「江戸川」と俗称されるようになり、明治以後に正式名称となった。
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~宇喜田の由来や特徴~ |
「宇喜田」という名称は宇田川喜兵衛新田の略とされている。
現在の宇喜田地域はもともと小松川地先の海辺であり、旧中川や旧江戸川の三角州の南端にあった萱(かや)生地・荒地だったが、慶長元年(1596年)、宇田川氏によって開発された。
戦国大名の宇喜多氏との関連を指摘されるが、配流され八丈島から戻った宇喜多氏の子孫が与えられた土地は隣の千葉県浦安市内のため異なる。
天文二年(1533)に品川に生まれた「宇田川喜兵衛定」は現在の宇田川町(港区)を開発すると、弘治二年(1556)に小松川に移住。天正十八年(1590)に家康が江戸にやってきた頃、小松川先の海辺の湿地帯を開発し3千石の水田(宇喜新田)を得た功により、上田(じょうでん)1町5反分の屋敷地を賜ったという。
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~小松川の由来や特徴~ |
中世には新小岩付近に小松村があり、江戸川と中川の低湿地帯を流れる川を小松川と呼んだ。
時代を追うとともに陸地化が南へ進み、やがて小松村の南方で小松川を挟んで東西に村が開け、東・西小松川村となる。村境あった小松川はのちに境川または小松川境川と呼ぶようになる。
現在は、暗渠となり親水公園となっているが名称を「小松川境川親水公園」というのはそのため。
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~松島の由来や特徴~ |
当初区では「北松江」を押していたが、住民の反対の声も聞かれ旧称の「西小松川村字堂ヶ島」から「松島」を拾い出して命名した。
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~瑞江の由来や特徴~ |
明治にできた「瑞穂村」と「一之江村」が、大正時代に入って合併し、双方の村名から一字づつとって「瑞江」となる。
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~春江の由来や特徴~ |
「春江」は、旧町名の「椿」の旁と、一之江の「江」をとって1938年(昭和13年)に「春江町」と命名したもので、古くからの地名ではない。
一之江新田は「堀田図書英文(ほったずしょひでふみ)」によって開拓される。彼は豊臣の旧臣で徳川家康の求めにより土着。
この地は一之江村の草刈場で、一面の茫々たる原野の中に椿の木が多数茂っていて、「椿場」とか「椿っ原」と呼ばれていた。
堀田図書は、豪農「田島庄兵衛」の世話になり、その娘を後妻に迎えて姓を田島に改める。従う者11人と荒野の開発にいそしみ、苦労を重ねて数十年。一面の椿っ原も美しい田となり一之江新田村がうまれる。
以後図書家は名主を務め、今日まで10数代を連綿として繋いでいる。
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~北葛西の由来や特徴~ |
1596年(慶長元年)に宇田川定氏によって開発された「宇喜田」の一部である。元禄時代に東宇喜田村(東葛西)と分かれて西宇喜田村になり、明治時代には近隣の村々と合併して葛西村になった。
昭和時代に江戸川区が誕生すると宇喜田町となったが、1978年(昭和53年)以降の住居表示の実施により、南船堀町と共に北葛西として再編された。
しかし一部は地名変更せず宇喜田町のまま残ったため、現在の町の形は凹型になっている。昔の村の中心地は新川やその分流である宇喜田川沿いにあったようである。
分流は戦後、次第に埋め立てられたが、現在でも分流と併走していた棒茅場通り(ぼうしばどおり)は昔の集落の面影を残している。
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~清新町の由来や特徴~ |
荒川と中川との合流点の東岸にある。1972年(昭和47年)から開始された「葛西沖開発事業」により、遠浅の海が埋め立てられた地域で町の全域が埋め立て地となる。
海抜ゼロメートル地帯に隣接するが、盛り土によって水面上に作られているため、水没のおそれはないとされ、水害に対する「地域防災拠点」に指定されている。
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~東篠崎町の由来や特徴~ |
東京都内陸部かつ江戸川区の「最東端」にあたる篠崎地域南東部に位置する町。北部には東京都立篠崎高等学校があり、南部の大規模な工場との間に都営東篠崎住宅の集合住宅が多数立地する。
1932年(昭和7年)の江戸川区成立時から存在する町となる。
1987年(昭和62年)、篠崎地区の住居表示実施により東篠崎一丁目・二丁目が成立するが、河川敷部分は対岸の千葉県市川市との間の都県境が未定のため住居表示は未実施。現状も旧町名の東篠崎町のままとなっている。
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~一之江町の由来や特徴~ |
1932年(昭和7年)の江戸川区成立時に「一之江町」として成立。
1938年(昭和13年)の町名地番整理により、当地区の大部分は一之江一~四丁目となったが、新大橋通り以南の最南部のみは「一之江町」のまま残り、2009年現在も存続している
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~瑞江の由来や特徴~ |
「瑞江」の地名は、戦前の1913年(大正2年)から1932年(昭和7年)まで存在した東京府の瑞江村に由来する。
この村名は、瑞穂村と一之江村が合併した際に生まれた合成地名である。
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~中葛西の由来や特徴~ |
中葛西の町域は1975年頃の地図によると、周辺の様々な町に属していたようである。
葛西橋通りの北側は宇喜田町に、三角葛西通りを挟んだ二丁目は桑川町と長島町で、葛西駅の北側は長島町、葛西駅の南側の付近は葛西や新田だったようである。
宇喜田や長島、桑川などの地名は江戸時代の村の名前であり、葛西はそれらが明治時代の町村制の際に合併して出来た葛西村に由来。
古い地名は昭和時代に江戸川区が誕生した後も、1970年代までは町名として使用されていた。しかし1978年以降の住居表示の実施によって、中葛西になったようである。
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~二之江町の由来や特徴~ |
1889年(明治22年)の町村制施行時には瑞穂村、1913年(大正2年)以降は瑞江村の大字であった。
1932年(昭和7年)の江戸川区成立時に二之江町となる。
1938年(昭和13年)の町名地番整理により、町の大部分が春江町四~五丁目・西瑞江四~五丁目・江戸川四~六丁目となった。
1967年(昭和42年)の住居表示実施により一部が船堀七丁目となり、残る一部が現在の二之江町で、住居表示未実施の狭小区域として存続している。
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~南葛西の由来や特徴~ |
集合住宅群が林立し、人口密度は区内第三位。
町域西側の臨海町との境界を都道が蛇行しながら旧江戸川まで南下しているが、これはかつての海岸堤防に沿っているためで「葛西堤防線」と呼ばれている。
東京湾から1kmと隔てられておらず、堤防が無ければ満潮時には水没してしまう危険のある海抜ゼロメートル地帯に位置する。旧江戸川沿いの地域は地震災害時には地盤液状化の恐れがあり、防災行政上の課題となっている。
地域の歴史として、太日川(江戸川の古名)の広大な三角州だったこの地は、江戸期までに現在の旧江戸川を挟んで隣接する現・浦安地域を中心とした堀江新田の一部として開発された。
村民により海岸堤防が築かれて「葛西海岸」と呼ばれるようになり、堤防の内側には田畑がつくられた。
その外側には三枚洲や蜆島(しじみじま)などの干潟や湿地帯が広がり、貝類や海苔、葦などの採集が行われるようになる。
1871年(明治4年)の廃藩置県で、印旛県葛飾郡堀江村の飛地となっていたが、大字堀江のうち江戸川右岸が東京都に編入され、南葛飾郡葛西村の大字となる。
1957年(昭和32年)には、公設の「葛西海岸堤防」が整備されたが、江戸川の氾濫や高潮によってたびたび浸水被害を受けていた。高度経済成長期に地下水汲み上げによる地盤沈下にともなって塩害や土地の水没が深刻化。
農地は耕作不能となり、1958年(昭和33年)には区工場による「黒い水事件」が発生して沿岸漁業も衰退。その後はゴミの不法投棄等が行われ公害が深刻化する。
1972年(昭和47年)より、東京都が葛西沖開発事業が開始され、この埋め立て事業で隣接する臨海町や清新町が誕生する。
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~新堀の由来や特徴~ |
いったん消滅した旧町名が復活したものである。
1932年(昭和7年)の江戸川区成立時に「新堀町」として成立したが、1938年(昭和13年)の地番整理により大部分が一之江一丁目、春江町一丁目となり、新堀町はごく狭小な地区を残すのみとなる。残された狭小な地区も1970年(昭和45年)に鹿骨二丁目に編入され廃止された。
1979年(昭和54年)、区画整理事業実施に伴う換地処分により、一之江一丁目、春江町一丁目の各一部をもって新堀一丁目・新堀二丁目が新設された。
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~鹿骨の由来や特徴~ |
鹿骨の名前の由来として、奈良時代(8世紀)、藤原氏によって奈良の春日大社の創建に際し、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れ奈良まで行ったと言い伝えられている。その途中、鹿が死んだためこの地に葬った。これが「鹿骨」の地名の由来とされる。
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~西葛西の由来や特徴~ |
西葛西は20世紀後半まで東京湾に面しており、一帯は「葛西浦」や「葛西海岸」と呼ばれていた。
沖合いの三枚洲まで、遠浅の海が広がっており、西葛西駅の北側は以前は、小島町の名称であった。近隣にはかつて長島町という地名もあり、中世までは島が点在していたと思われる。
近隣の東葛西の北部は中世に、宇喜田町や東葛西の南部は江戸時代に開発された。しかし江戸時代の西葛西は長島村、ニ之江村、下今井村、桑川村の飛び地にすぎず、戦後まで人家はまばらだった。
治水の問題も多く、1910年(明治43年)に「明治43年の大水害」が発生し、1930年(昭和5年)に荒川放水路が作られ、またカスリーン台風やキティ台風の被害も大きく、1957年(昭和32年)に「葛西海岸堤防」が作られる。
水害の心配がなくなったのは最近で、1972年(昭和47年)に「葛西沖開発事業」が始まり、遠浅の海が埋め立てられたからとなる。
こうして西葛西は東京湾から切り離され、区画整理によって広い道路と整然とした町並みが形作られた。
現在、西葛西は区内で2番目に人口が多い地域となる。医療福祉の従業者数は区内第一位となっている。
ちなみに2000年代以降、IT技術者を中心にインド人が多く居住していることでも有名。2010年(平成22年)の統計ではインド人の外国人登録者は、日本全体で約2万2000人おり、そのうち約1割(2336人)が江戸川区に在住していることとなる。
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~東葛西の由来や特徴~ |
東京湾から1.5kmほどしか離れておらず、葛西地域の他の町と同様、堤防がなければ水没してしまう海抜ゼロメートル地帯にある。
東葛西の北部は、葛西地域の中で最も歴史が古い区域となる。
太日川の河口に位置し、中世には葛西御厨(有力な神社の荘園)の長島として知られていた。
葛西御厨は伊勢神宮の荘園であり葛西清重が治めていたが、葛西氏が衰えると千葉氏や後北条氏の所領となった。
この地域は河川交通の要所で、上流には下総国の国府や香取海があり、多くの船が行き来していた。長島には長島湊(長島の津)が設けられ、葛西御厨や国府の外港の1つとして栄えた。
南北朝時代の河川交通は、香取神宮が取り仕切っていた。香取神宮の勢力は東京湾と内海の境界に当たる長島にまで及んでおり、1372年(文中元年/応安5年)、長島に河関を設けて通行料(灯油料所)を徴収した。
戦国時代には港を守るために、長島高城があったという説がある。清光寺がその跡と言われており、現在でも周辺には神社仏閣が立ち並んでいる。
1559年(永禄2年)の長島は後北条氏の重臣、太田康資の領地の1つだった。
近隣では数度に渡って国府台合戦が行われ、1563年(永禄6年)の第二次国府台合戦は太田康資が里見氏に寝返った事が開戦の発端となった。この時、負傷した里見義弘を助けて落ち延びた1人が篠原伊予(安西氏)で、後に北小岩に伊予新田を開発した。子孫は長島村に移住し、名主の1人となったと言う。
江戸時代には、南部の開発が進んだ。
宇田川定氏が宇喜田を開発し、東葛西の南部もその一部だったが、元禄時代に東宇喜田村として分かれた。
旧江戸川沿いの自然堤防に雷(いかずち)、新田仲町通り沿いの後背低地に仲町などの集落ができ、北部には長島村や桑川村、下今井村が出来た。
1629年(寛永6年)、東葛西の北端に新川が開削され、江戸の水運の大動脈となった。
時代は流れ明治時代になると、町村制によって葛西地域の村々は合併し、葛西村となる。
昭和時代には市郡合併によって江戸川区が誕生し、桑川町など一部の旧地名が復活した。戦後、葛西地域では大規模な開発が進み、1969年(昭和44年)東西線が全線開通し、葛西駅が設けられた。
1972年(昭和47年)には葛西沖開発事業が始まり、1978年(昭和53年)以降の住居表示の実施により、東葛西という住所が成立した。
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~興宮町の由来や特徴~ |
おきのみやちょうと読む。興宮神社に由来した旧来の「興宮村」に由来。神社が海に面しており、「沖の宮」と呼ばれたことが由来とされる。「興之宮」「興野宮」とも表記し、更に「興」の代わりに「奥」が混同して使用されることもあった。
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~篠崎町の由来や特徴~ |
「篠」とは細く小さくて群がって生える竹や笹の総称で、篠崎という名は「砂州上でしかも篠竹が生い茂っていた土地」に由来すると言われる。
この地域は下総国の国府に近く、中世には葛西御厨(有力な神社や荘園)の篠崎郷があったと伝えられている。
平安時代末期には葛西清重が治めていたが、葛西氏が衰えると千葉兼胤や後北条氏の重臣の遠山直景の所領となった。
後北条氏が活躍した戦国時代には篠崎街道は「岩槻道」と呼ばれており、行徳塩田の塩を岩槻城まで運ぶ重要なルートだったと言う。
江戸時代には旗本の知行地となり、上篠崎は木村氏(後に松浦氏)、下篠崎は本多氏が所領した。
村人は農業の傍ら、水戸佐倉街道の新宿を助郷したり、農閑期には篠竹を材料にして「篠崎ざる」や「篠崎むしろ」を作っていたと言う。
地形として、篠崎町の北部が属する鹿骨地区は江戸川区の中では比較的に標高が高い地区である。
しかし過去にカスリーン台風の浸水被害があり、上流部が決壊すると再び浸水すると言われている。
中世から陸地だった為か地震災害時でも篠崎駅の西側は地盤液状化がほとんど発生しないのではないかと言われる一方、河川敷を中心に液状化の恐れがある。
その為か江戸川区は江戸川右岸のスーパー堤防化や篠崎公園の高台化を行い、最悪の場合は区民を対岸の国府台に避難させる計画を立てているようである。
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~臨海町の由来や特徴~ |
東京都江戸川区南部葛西地域南部に位置する、1972年(昭和47年)に「葛西沖開発事業」が始まり、遠浅の海が埋め立てられ造成された埋立地である。
臨海町は海抜ゼロメートル地帯に隣接するが、盛り土によって水面上に作られているため、海没の心配は無い。特に葛西臨海公園内に造られた山は高潮防潮堤としての機能を持っており、南関東直下地震の2メートル弱の津波にも耐えると言われている。
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~葛西(広い範囲)の由来や特徴~ |
昔の、「葛飾」といわれた地域の中で、江戸川より西の地域を「葛西」とよんだことが名前の由来。
当時の「葛西」は隅田川より東の全ての区(墨田区、江東区、江戸川区、葛飾区、足立区と、埼玉県の東はしにあたる地域全てのことで、今よりとても広い範囲のことだった。今でも「葛西用水」という田の水をとるために人が作った川があるが、この用水は埼玉から足立区を通り、江戸川区には来ていない。このあたり全体が「葛西」と呼ばれていたことの証拠である。
埼玉の秩父あたりにいた平氏の一族の豊島氏が、千年ほど前に今の葛飾区青戸に城をたてたとき「葛西」と名前を変えた。これが、葛西という地名が広がる元になったらしい。葛西氏は源頼朝に協力して手がらをたて、そのほうびとして、奥州(今の岩手県あたり)を領地にしたといわれている。
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