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 区の紋章江戸川区の成り立ち
⇒1.古代~室町時代
⇒2.江戸時代
⇒3.幕末から明治時代 
⇒4.大正~昭和初期
⇒5.戦後から平成時代     (歴史年表確認)
 1.古代~室町時代
江戸川区は古くは海底にあり、約3000年前から徐々に陸地が形成。

弥生時代後期(約1800年前)になると、現在の小岩付近に人が暮らし始め次第に南下する。
古墳時代(約1600年前)になると、半農半漁の生活を営む人々が増えてきたと考えられている。

平安時代になると村が18 程度あり、現在の「鹿骨」「一之江」など地名が既に使われていた形跡がある。
江戸時代以前の利根川・荒川・渡良瀬川水系
   (江戸川区ホームページより)
 
平安末期から鎌倉時代にかけて下総国の有力な豪族として勢力を誇っていた千葉氏の支配下として、区内の地名がいくつか散見され、葛西氏の領地と考えられている。
葛西氏が伊勢神宮に葛西33郷(ほぼ葛飾区・江戸川区)を寄進したという記録が残っており、区内の地名が18ヶ所登場する。特に篠崎の地域は葛西氏の領する「葛西御厨」の中心地として栄え、また今井(現在の江戸川区瑞江付近)・長島(同東葛西)は太日川(江戸川)河口の湊として賑っていた。

室町時代、後北条氏の影響が強くなってくる後期頃は、江戸衆と呼ばれる江戸城代遠山氏を中心とした家臣団の支配下に入り、区内の一部が太田氏富永氏らの領地となっていた記録が残る。
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 2.江戸時代
(徳川家康の開発)
1590年、徳川家康が江戸城に入府すると、区内の大半は幕府直轄とされる。
当時の江戸は、その大半は川や沼などの低湿地帯で、多数の河川が流れ込むために河川の氾濫も多く、それらの中に点在する舌状台地に小規模な集落があるだけの寂しい場所だった。
こうした環境を変え自らの居城と城下町を整備するため、徳川家康は新田開発や水上交通網の開発などの大きな開拓事業を開始する。長い年月をかけて行われたこの工事は「利根川の東遷(とうせん)」と呼ばれている。

現在のように利根川と繋がったのは1621年頃のこと。
治水工事や新川開拓が進み、「行徳の塩」を始めとする様々な物資搬入の幹線交通路となり、区内の開発が進む。江戸時代には葦(アシ)や萱(カヤ)等の生産や、新田開発が盛んに行われていたが、幕府も手当たり次第の開発を認めていたわけではなく、区内の大半は天領として鷹場に指定されていた。小松菜の命名者といわれる将軍吉宗は、鷹狩をするため実に76回もこの地を訪れていた。

江戸初期における江戸川区内の石高は約15000石程であったが、区内の至る所にあった湿地帯や中洲、砂地の埋め立てによる新田開発が進み、文政年間には20000石を超えるまでに増加。合わせて江戸期には漁業も盛んになったと伝わる。
宇喜田を開いた宇田川喜平、一之江一円を開いた堀田(田島)図書、小岩を発展させた篠原伊予らは区の功労者といえる。

(江戸時代の区内の街道)
江戸時代における主要道路は4道あり、逆井の渡から小岩に通ずる「元佐倉道」、新宿から小岩を経て市川に向かう「佐倉街道」、「行徳道」、「岩槻道」があった。
江戸時代に区内にかけられていた橋は24基あったが、江戸川や中川など大きな河川には、政策上から橋をかけず各所に「渡し船」がおかれていた。
佐倉道や江戸川の小岩市川の渡し、中川の逆井の渡しは、大名行列や成田詣の参拝路ともなっていたため人通りも多く繁盛していた。
小岩市川の関所  房総方面から江戸に入る街道に設けられた重要な関所で、「入鉄砲
 に出女」と言われたように厳重な取り調べが行われていた。 
佐倉街道   水戸街道から葛飾の新宿で分かれる脇街道で、小岩村にはいる重要
 な道。小松川から小岩市川の関所に一直線の道で、現在は千葉街道
 となっている。
行徳道  小松川から今井を結ぶ古い道で、成田参りの人々が往来したり、行徳
 でつくった塩を江戸に運ぶために利用されていた。 
岩槻道   篠崎・小岩を通って埼玉県の岩槻に通じる道で、区内を縦に走る重要
 な道であった。 

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 3.幕末から明治時代 
(時代)
王政復古を果たし明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、それに反発する旧幕府勢力の戦いは続き戊辰戦争となる。
上野の山や千葉県上総地域に逃れた旧幕府軍は態勢立て直しを図るため官軍である新政府に抵抗。上総地域の旧幕府軍と、新政府は市川と船橋でぶつかり「市川・船橋戦争」と呼ばれる大きな戦いとなる。
新政府側は、現在の江戸川区小岩側から武装解除をさせるため市川方面に進撃を開始している。
  Vs 

(村々から「東京府」に編入)
明治4(1871)年、廃藩置県により江戸は「東京」と改称され、旧幕府の管轄区域に「府」が置かれ、現在の江戸川区の区域に入る村々は東京「府」に編入される。
江戸時代の村々
(明治4年以前)
 上小岩村、中小岩村、下小岩村、松本村、鹿骨村、興宮村、
 本一色村、上一色村、東一之江村、西一之江村、二之江村、
 新堀村、船堀村、伊勢屋村、上篠崎村、下篠崎村、谷河内村、
 上鎌田村、下鎌田村、上今井村、下今井村、前野村、桑川村、
 長島村、東宇喜田村、西宇喜田村、逆井村、笹ヶ崎村、
 上平井村、中平井村、下平井村、東小松川村、西小松川村、
 上小松村、下小松村、
明治7年の戸籍法により大区小区制強化のため、自治権を奪われて第十一区に編入。この大久保利通による専制強圧政治を受けて全国の旧武士層が不満を爆発させて立ち上がり、自由民権運動が起こった。やがて大久保は独裁の罪により斬殺され「大区小区制」は撤回となる。

明治11年に「郡区町村編制令」が施行され南葛飾郡が復活する。
明治22年になると、「郡区村編制法」を廃して、新しい「市制・町村制」が施行。当時の村も大規模な統合が行われ当時の36ヶ村は、「近代農村10ヶ村」となリ明治政府として初めて自治制が敷かれるようになる。
統合後の10ヶ村  小松川、平井、松江、船堀、葛西、瑞穂、一之江、鹿本、篠崎、小岩
明治時代は、中小河川が無数に流れる低湿地帯が区域の大半を占めていた。

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 4.大正~昭和初期
(町村体制の変革から、江戸川区の成立まで)
大正2年から3年の町村分合により、瑞穂村と一之江村が合併し「瑞江村」に、小松川村と船堀村、さらに平井村が合併し「小松川町」が起立。1町6ヶ村体制となる。
その後、大正15年には松江村が「松江町」に、昭和3年には小岩村が「小岩町」に移行し、「3町4ヶ村」の体制となる。
昭和7年には、南葛飾郡自体が東京市に編入されたため、3町4ヶ村は合併して「江戸川区」が成立。当初の人口10万3511人。

昭和18年になると、東京「市」の自治権が拡大し始め、府(国)の管理が行き届かなることをおそれた当時の政府は、東京市の自治権を大幅削減する。
東京市を廃して府に吸収。さらに府を改めて「都制」を施行し、都は当時の総務省となる内務省の直轄とされることとなる。こうして現在の「東京゛都゛江戸川区」が成立することとなる。


(時代の出来事
大正6(1917)年、錦糸堀(現在の錦糸町)と小松川間に城東電車が開通し、大正14(1926)年には東荒川から今井間まで延長。
昭和27(1952)年には廃止される。以降は、東京発のトロリーバスが運行されるようになる。
昭和6(1931)年に荒川放水路、昭和8(19191)年に江戸川放水路が完成し、それぞれの村の整備が進められる。昭和38(1963)年には、24 年間かけてつくられた新中川放水路が完成。これが現在の「新中川」となっている。


(第二次世界大戦が及ぼした江戸川区への影響)
昭和14年(1939)から開始した第二次世界大戦は戦火を拡大。日本においても昭和16年12月(1941)にマレー作戦と真珠湾攻撃を行いアメリカ・イギリスに宣戦布告。自らの戦争を「大東亜戦争」と位置づけ日本は連戦連勝し、その勢力を拡大する。
しかし昭和18年(1943)のドイツの敗北、イタリアの降伏の影響から雲行きも悪化。欧米列強との戦いは苦しいものとなる。

戦争悪化により、児童を戦禍から守り教育を続けるために集団疎開が国策として実施される。
江戸川区の疎開先は山形県と決定され、昭和19年(1944)8月から児童の疎開は開始される。江戸川区の第一次集団疎開児童数は「5,118人」で8地区に分かれての生活が始まる。

(東京大空襲と江戸川区)
①東京大空襲とは?
第二次世界大戦末期となる昭和19年11月(1944)から昭和20年にかけて、アメリカ軍の空襲は東京にも及ぶようになる。空襲は100回以上を数えその中でも昭和20年3月10日(1945)の空襲は大規模なものだった。この空襲のことを一般的に「東京大空襲」と呼んでいる。

大規模な空襲は日付が変わった10日0時7分に開始。250機以上の爆撃機から投下され、空襲警報解除までの約2時間半の間に投下された焼夷弾は1783トンといわれ、東京市街は火の海となる。
この空襲により、東京の約4割が一夜にして焼失、その死者は10万人を越えると言われている。
アメリカ軍の
攻撃目標
 ①第一目標 … 深川区(現在の江東区)
 ②第二目標 … 本所区(現在の墨田区)
 ③第三目標 … 浅草区(現在の台東区)
 ④第四目標 … 日本橋区(現在の中央区)

②江戸川区における影響
深夜に開始された東京大空襲は江戸川区も例外ではなく、平井・小松川地区に壊滅的なで被害がでる。人家スレスレまで高度を落とした超低空からの無差別爆撃は付近一体を焼野原する。当時小松川にあった区役所も焼失するが、特殊コンクリート製の江戸川区役所文書庫だけが焼けただれた姿で残る。

この空襲被害は、死者約800名、負傷者約5,800名、全焼家屋約11,000戸、罹災者は約40,000名にのぼる。
中川新橋から約100m上流付近での死者が最も多く、「中川新橋の下は死体で川の水が見えなかった」という話も聞かれている。
被害拡大の要因として、虚をついた深夜であり、風速20~30mの強風、下町特有の木造密集地域などがあげられている。
一方、葛西・瑞江・篠崎地区は農村地域であったため、空襲による火災の延焼は比較的拡大せずにすんでいる。

戦火の中、区の重要書類を川に沈めて守った元助役をはじめ多くの区民が、戦争の悲惨さを伝えるために文書庫の保存と「平和像」の建立を求めて立ち上がり、区もこれに応え平成元年文書庫の保存を実現。
「旧江戸川区役所文書庫」として小松川三丁目公園内に保存。平成3年には「世代を結ぶ平和像」が建立されている。
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 5.戦後から平成時代にかけて
戦災により激減した人口は戦後、都心部からの転入者等により急増。
昭和26年(1951)には今井橋が復旧、また幹線道路も次々と整備され交通網が発達。都心に近い立地条件も追い風し、かつての農村地帯は急速に住宅地や商工業地帯へと発展する。区内各地に工場が設立され、新興商店街も形成されるようになる。
1960年代以降の急速な都市化の影響により、今までの生活を支えていた水路や河川は生活排水などで汚染され悪臭を放つなど大きな問題となる。

当初は河川の埋め立てや暗渠(川に蓋をする)化を進めていたが、江戸川区は水とともに歩んできた地域でもあり、方向を転換。
改善策として考えられたのが、水路や中小河川を「親水公園」や「親水緑道」等にして、積極的に活用できるようにしようというもの。
 

この取組により、昭和48年には回復不可能と思われていた「清流」がよみがえり、国連でも発表されるなどし数多くの賞を受賞。国内はもとより、世界各国で大きな反響を受ける。現在では各地域でも取り組まれるようになった親水公園は、実は江戸川区から生まれている。 (写真:古川親水公園工事前(昭和47年撮影)江戸川区ホームページより)


(葛西沖開発事業)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/SEISHIN-CHO_and_RINKAI-CHO_in_1974.jpg/220px-SEISHIN-CHO_and_RINKAI-CHO_in_1974.jpg    1974年の清新町と臨海町。
     (ウィキペディアより)
葛西沖開発事業とは、昭和47年(1972)から平成7年(1995)まで行われた葛西沖の埋め立て・開発事業のこと。
この開発により「清新町」と「臨海町」が造成され、また「葛西臨海公園」等が整備された。

(沿革)
高度経済成長に伴い葛西地区や葛西沖を開発が計画されたが、地域の環境団体により事業化反対が訴えられる。

しかし次第に、海水汚染による漁業の衰退、ゴミの不法投棄、また工場用水利用に伴う地盤沈下進行。葛西沖を含めた葛西地区全体の自然環境が悪化してしまう。こうしたことも影響し事業が動き出すこととなる。

(近年)
平成元年(1989)には都営新宿線が開通し、現在の鉄道網が整備される。
平成8年(1996)には下水道普及率100%を達成。これまでの放水路の開削、堤防の強化など様々な取り組みの結果、「雨が降れば水浸し」と言われた江戸川区の水に対す
る安全性が格段に向上する。
江戸川区は都心に近い立地条件を生かしつつ、生きる喜びを実感できる都市を目指し歩み続けている。
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